りんごの匍匐前進

便利情報と前進の記録をドイツと東京から発信

見かけ

 

世の中色んなカテゴリがある。性別、国籍、宗教、民族、母語による分類、人種、年齢、職業、学歴、婚姻歴、子供のあるなし、などなど。

 

カテゴリに誰かを当てはめて、その通りに扱うのは効率的だ。

 

一方で、誰かを決めつけて勝手ににカテゴライズして不当に差別するのは許されないことだ。

 

 

今月になってから、自分の中ではちょっとした革命みたいな心境の変化があった。

 

人は見かけや母語、表現の仕方は違っても、それらはほんの些細な違いに過ぎなくて、大半は同じ人間なんだな。

 

何を今更、と思うだろうし、1年前の私に見せてもそう思うだろうけど。

 

別にマイケルジャクソン二世を名乗るつもりもない。

 

言葉や見かけの違いは確かに壁だけど、それでも共通点に比べれば違いはほんの些細なものだと思う。

 

些細な違いで争うのは、うーん。

 

異性・異人種・異宗教・異国籍(以下略)の同僚ととりとめのない会話をして、ちょっと普段より面白かったから腰掛けてまぁ馬鹿笑いして過ごした。

 

ヨーロッパでは会話中に目を合わせないのは挙動不審なので、ドイツではドイツ人のように振る舞え、ということで幾度となく目は合わせて来たけれど。

 

なんというか、ふと目を覗き込んだ時に、中に生身の「人間」を感じたんだよ。

 

それで、↑のイタリックを確信した。

 

 

それで、不思議に思うのは、なんでみんな違いをやたらと強調したがるのかわからない。

 

周りの外国人は、何かと母国について話したがるし、うちのシェフは「文化交流」とかなんか寝ぼけたこと言ってるし、何か問題があると文化の違いによる軋轢だの、という。

 

まぁ何かしら問題があってそれを「文化の違い」に帰結させるのは即ち「外国人が悪い」と言いたいんだよね、例えそうで無くても、問題の本質は隠れるから便利な言葉だ。

 

「文化の違い」、一理あるかもしれない。

 

けど、私が思うには、「違う」ということを強調しすぎると侮蔑のニュアンスが出てくる、ということ。

 

誰しも自分が一番慣れ親しんだものが一番いいと思うもので、それとの違いを強調しすぎるのは、「認める」を通り越して「けなす」、に近づくと思う。

 

 

特に、某ドイツ女はよく、英語で話している時に「We European・You Asian」を多用する。

 

最初は「アジア人がそんなに珍しいか、そうかそうか」ってなもんだけど、百回以上You Asianって同じ人から言われると流石にもう侮蔑ですよね?

 

でも、ドイツ人ボスはそのドイツ女が天使だと思っているし、We European/ You Asianを全く問題に思っていないみたい。

 

非欧米圏の学生の扱いは、うーん。

 

最初は「言葉の壁」が原因で、中国人(ドイツに来る中国人は英語が苦手)やインド人(一般に英語はドイツ人よりよほど流暢で語彙も豊かだが、独特のアクセントあり)の風当たりが強いと思っていたけど、どうやらそれだけでは無さそう。

 

中国人やインド人は「あいつらはレイシストだから何を言っても無駄」と割り切っている。

 

不当な扱いを受けても黙々と働き、近い将来に今威張ってるだけのヨーロッパ勢を出し抜いてしまうであろう彼らを私は密かに応援している。

 

欧米vsアジアの構図を表向きは持ち込みたくないのであくまでも密かに、だが。

 

あれ、矛盾してる?