POPスターの死やいじめを苦にした若者の自殺と、身近で経験したドイツ人の自殺に対する姿勢を見て、「自殺を魅力的な選択肢にする」ような過度な美化や追悼、私刑はやめるべきだと思うようになりました。
K-POPスターの死
K-POPの人気グループf(x)の元人気メンバーのスター、スルリさんが亡くなった。
スルリさんは、子役でデビューした後、少女時代やKARAなど日本でもK-POPが流行していた時代に同じくらいに人気のf(x)というアイドルグループで活躍、グループを脱退してからは美しい容姿や長い手脚を活かして女優業やモデル業に活躍。ただ、最近はノーブラの写真をインスタグラムにあげたり酔っ払ったままライブ配信をするなどの寄稿もみられ、ネット上でアンチからのバッシングも酷かった模様。 そんな総合ニュースによると自宅での自殺と見られてるとのこと。
若者の自殺:追悼してもいいけど美化してはいけない
死をセンセーショナルに扱うアジア
死は絶対に手段にしてはならない。
それは若者の自殺を誘発しかねないから。
WHOの自殺予防ガイドラインにも、自殺報道はセンセーショナルであってはならない、とある。
しかし、日本や韓国のメディア、ネット界隈は若者の自殺をセンセーショナルに取り上げる。
別にスターでなくてもいい。学校でいじめられた可愛い女の子が遺書を残して死ねば、それはもうお涙頂戴のコメンテーターに正義をふりかざし感傷的な新聞・ネット記事、それに煽られていじめの加害者を特定して私刑を始めるネット民。
一度や二度ではなく日本語界では見られた光景だ。
転生輪廻や生まれ変わりを信じている宗教観も背景にあるのだろう、 日本に限らず、インドでも自殺、特に大学生や大学院生の自殺も多い。ボリウッド映画ではハムレットが召使いを誤って刺し殺すが如く登場人物の一人が飛び降りなどでお気軽に自殺し、何事も無かったのようにストーリーが進む。
日本でも、「生まれ変わってもお父さんとお母さんの子供に生まれたいです」と遺書に書き残して自殺した女子中学生がいたのは記憶に新しい。
自殺に冷ややかなキリスト教圏、ヨーロッパ
ところが、ローマアルファベット圏は自殺した人に対してもっと冷静、アジアから見れば冷ややかだ。カトリックでは自殺では罪なことも関係あるのだろうけれど。
ドイツ人の自殺への対応に憤慨
私の職場の同僚の若いドイツ人男性が、数年前に自殺した。27歳だった。
私は酷く動揺し、彼の自殺後は奥歯が根本から割れ、鬱になった。というのも、おそらくは私は彼が亡くなる3時間前に言葉を交わしたおそらく最後の人だったし、遺書を発見したのも私だったから。酷い後悔と罪悪感が私を襲った。
私が鬱になったのは彼が死んだことが悲しく辛かった以外にも、悲しみを周りの人と共有できなかったからというのが大きい。
別の若いドイツ人が心臓の病気で急逝した時は悲しみを分かち合えたのに、自殺後は周りの人は悲しむどころか根拠のない下衆い憶測や噂話で盛り上がり、死者を悪く言う人ばかりだったから!上司におべっかを使うノリで、亡くなった人の悪口大会に花を咲かせていた!
日本では死ねばみんな仏様だし、死者を悪く言う人は滅多にいないと思う。
しかしドイツ人は違った。一応建前で、遺族に花は贈ったけど、ドイツ人らは心から哀しんでいるようには到底見えなかった。
当時私はそんなドイツ人達に憤慨し、絶望し、完全に軽蔑して心も閉ざした。けど、今になればあのドイツ人達の対応はある意味正しかったのかもしれないと思うようにもなった。
というのも、死んだ人を美化して慮ってあげる義理は遺された我々には無いのだ。
亡くなった彼はとっても優しくて楽しいジョークが言える反面、どちらかというととても内気で、進んで人の輪の中に入っていくタイプではなかった。日本ではこの類の内気や「コミュ障」は山ほどいるし、理系男子やオタクのデフォルトと言ってもいい、ありきたりなことだ。しかし、ドイツやヨーロッパは違う。積極性や社会性が無いと、欧米社会では人格は単車の烙印を押される。だから月曜日のドイツ人は、いかに自分の週末が家族サービスや恋人、友人達と充実したものかを互いに自慢し合う。
何度も涙ながらに読み返した彼の遺書は、数年経った今思い返すと、彼が自分の口で表現できなかったことが詰まっているように思えた。当時はそれに気がついてあげられなかった自分を大いに責めたが、今思えば彼はそれを自分の行動や言葉で表現すべきで、死という手段や機会で周りの人たちにそれを伝えるのは卑怯で間違ってると思う。
ドイツ人達の悪口大会はこういう未熟な人間性への冷ややかな思いがあったのだと、今は思う。ただ、表面の言葉がゲスすぎて理解できなかったけど。
エレクトロミュージックの世界的大スターだったAviciiの自殺報道があっさりしていたのもこういう考えがあるのかもしれない。まるでパーティーを早く切り上げる人を「あ、そう」と見送るような冷ややかさ。誰も泣いて追いすがり、このパーティーのどこがいけないのか、何か彼に去らせるような酷いことをしたのか?なんて悩んだりしない。ある意味すごく独立的。
追悼?それとも美化?
スルリさんの自殺報道に伴い、彼女の美しい写真や、「最後までネットアンチと闘った勇敢な女性」として褒め称えるツイートがTwitterには溢れている。
気持ちはすごくわかるけど、これは本当に正しいことなのか、疑問に感じる。
病気や事故などによる死に対して追悼するならわかるけど、自ら死を選んだ人の一番美しい姿を切り取り(このことは何ら問題ないと思う)、彼女に変わってアンチをバッシングする。これらは彼女にとって死を手段にしたり、死を魅力的な選択肢にしてしまっていないか?
いじめによるネットによる私刑もそう、センセーショナルな報道もそう。若者にとって、死を報復の手段にしたり、自分の美しさを保存したり気持ちを伝える魅力的な選択肢にしてしまわないように、もう少しだけ距離をとった方がいいんじゃないか、と思いました。